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【放送大学】政権批判の問題文削除 単位認定試験「不適切」 ― 2015/10/20 10:49
めっきり秋の深まった感のある本日、こんなニュースが出ていました。
ちなみにこの投稿のタイトルは、元記事のものです。
放送大学:政権批判の問題文削除 単位認定試験「不適切」
上のヤフーニュースの元記事が下。
放送大学:政権批判の問題文削除 単位認定試験「不適切」
まず、問題の核となる「現政権への批判」云々について、このブログでは政治等の問題を取り上げるつもりはないので触れません。
私が気になるのは、これを「言論統制」「検閲」といえるのかどうかという点、教育とはどうあるべきかという問題です。
試験問題では、
という記載があったようです。
此度の安保法案改正へは様々な意見があり、日本国民には「表現の自由」「学問・信条の自由」が認められているのですから、そのいずれを唱えることも私は安易に否定できることではないと思っています。
また、教授個人がいわゆる「右」「左」のいずれの考え方をするのも自由ですし、それを教える・学ぶ自由もあるでしょう。
ただ、「安保法案=戦争法案」と受け止めるか否かは、様々な意見がある。
つまり個人の受け止め方や「信条」により大きく異なっている前提を考えると、いわゆる上の試験問題のように、
「現在の政権は、日本が再び戦争をするための体制を整えつつある。」
と決め打ちで試験にしてしまうことは、いかがなものでしょう。
また、記事にはこうともあります。
放送大学は放送法に則る、という点が大学側の主張ですが、私は放送法云々以前に、教育とはいかにあるべきか、を考えてしまうのです。
私は、大学教育には、最終的には「中道」を求めたい。
教授のいかなる思想を教えるのも結構です。
ただし、あくまでそれは「ひとつの考え方である」ことを前提として欲しい。
「放送法に照らし公平」である前に、「教育理念として公平」であって欲しい。
実際問題としてただの理想であるとはわかっていますが、
「○○である。」
とするか、
「○○である、と考える。」
とするのでは、思想の偏り方がだいぶ修正されると思うのです。
ただ、学ぶ側にも自由があるのだから、思想に不満なら講義を取らなければいい、とも考えられるのですよね。
与える側に公平を強いるか、与えられる側が選択するか。
難しい問題です。
ちなみにこの投稿のタイトルは、元記事のものです。
放送大学:政権批判の問題文削除 単位認定試験「不適切」
上のヤフーニュースの元記事が下。
放送大学:政権批判の問題文削除 単位認定試験「不適切」
まず、問題の核となる「現政権への批判」云々について、このブログでは政治等の問題を取り上げるつもりはないので触れません。
私が気になるのは、これを「言論統制」「検閲」といえるのかどうかという点、教育とはどうあるべきかという問題です。
試験問題では、
「現在の政権は、日本が再び戦争をするための体制を整えつつある。平和と自国民を守るのが目的というが、ほとんどの戦争はそういう口実で起きる。1931年の満州事変に始まる戦争もそうだった」「表現の自由を抑圧し情報をコントロールすることは、国民から批判する力を奪う有効な手段だった」
という記載があったようです。
此度の安保法案改正へは様々な意見があり、日本国民には「表現の自由」「学問・信条の自由」が認められているのですから、そのいずれを唱えることも私は安易に否定できることではないと思っています。
また、教授個人がいわゆる「右」「左」のいずれの考え方をするのも自由ですし、それを教える・学ぶ自由もあるでしょう。
ただ、「安保法案=戦争法案」と受け止めるか否かは、様々な意見がある。
つまり個人の受け止め方や「信条」により大きく異なっている前提を考えると、いわゆる上の試験問題のように、
「現在の政権は、日本が再び戦争をするための体制を整えつつある。」
と決め打ちで試験にしてしまうことは、いかがなものでしょう。
また、記事にはこうともあります。
放送大の来生新(きすぎ・しん)副学長は「学問や表現の自由には十分配慮しなければいけないが、放送大学は一般の大学と違い、放送法を順守する義務がある。試験問題も放送授業と一体のものと考えており、今回は放送法に照らし公平さを欠くと判断して削除した」と話した。
放送法4条は放送局に対し「政治的に公平である」「意見が対立している問題は、できるだけ多くの角度から論点を明らかにする」ことを求めている。
放送大学は放送法に則る、という点が大学側の主張ですが、私は放送法云々以前に、教育とはいかにあるべきか、を考えてしまうのです。
私は、大学教育には、最終的には「中道」を求めたい。
教授のいかなる思想を教えるのも結構です。
ただし、あくまでそれは「ひとつの考え方である」ことを前提として欲しい。
「放送法に照らし公平」である前に、「教育理念として公平」であって欲しい。
実際問題としてただの理想であるとはわかっていますが、
「○○である。」
とするか、
「○○である、と考える。」
とするのでは、思想の偏り方がだいぶ修正されると思うのです。
ただ、学ぶ側にも自由があるのだから、思想に不満なら講義を取らなければいい、とも考えられるのですよね。
与える側に公平を強いるか、与えられる側が選択するか。
難しい問題です。
コメント
_ しぃたけ ― 2015/11/04 00:59
_ ぷーにぃ ― 2015/11/11 23:07
しぃたけさん
はじめまして。コメントありがとうございます。
私が気になったのは、記事内で抜き出した
「日本が再び戦争をするための体制を整えつつある。」ここだけではなく、
後続の文章を含めた全体のコンテクストです。
後続の文章を読めば、しぃたけさん言うところの
「国家の義務である」という意味では書かれていない。そう思われないでしょうか。
自衛隊、集団的自衛権に対しての否定的意見を伝えている文章だと、読めはしないでしょうか。
自衛隊が掲げる「専守防衛」も、集団的自衛権を行使した時点で
「戦争」参加になるのだとは思います。
ただ、自ら仕掛けることと、国を守ることの違い。
そのあたりを飛び越え「改正安保法案」を「戦争法案」と呼ぶ方々の見方は、
「日本が再び(自発的に)戦争をするための体制を整えつつある。」
という(否定的)ニュアンスを帯びているように思えてなりません。
もちろん試験中に「戦争法案」とは書かれていませんが、
少なくとも私はそう読み取れた、
もしくはそう伝えようとしているかのように受け取りました。
私以外に放送大学側もそう受け取ったのでしょう。
つまり読む側に誤読(敢えてそう表現します)させるようなコンテクストだとなれば、
上記試験問題は教育的中道の位置にいるといえるのだろうか、
少なくともそうあるべく配慮をした問題とはいえないのではないかと思えるのです。
ただし、この試験問題を、放送大学に(言い換えれば放送法に則って)ふさわしくないと
(これを検閲と呼ぶとして)削除することが正しいかどうかは私には判断がつきません。
さらに突っ込んで考えれば、教育とは中道にあるべきか否か、という問題もあるでしょう。
あくまでも私は政治的な問題や軍政について触れたのではなく、
「教育」という視点に絡めての個人的な意見です。
しぃたけさんのご意見、検閲すべきではないというお考えは
私が触れていない部分にまで踏み込んだものとして、拝読いたしました。
つきましては、自分からこのような記事を挙げておいて申し訳ありませんが
今後あまり突っ込んだコメントはお答えしづらい……ということをご了承ください。
はじめまして。コメントありがとうございます。
私が気になったのは、記事内で抜き出した
「日本が再び戦争をするための体制を整えつつある。」ここだけではなく、
後続の文章を含めた全体のコンテクストです。
後続の文章を読めば、しぃたけさん言うところの
「国家の義務である」という意味では書かれていない。そう思われないでしょうか。
自衛隊、集団的自衛権に対しての否定的意見を伝えている文章だと、読めはしないでしょうか。
自衛隊が掲げる「専守防衛」も、集団的自衛権を行使した時点で
「戦争」参加になるのだとは思います。
ただ、自ら仕掛けることと、国を守ることの違い。
そのあたりを飛び越え「改正安保法案」を「戦争法案」と呼ぶ方々の見方は、
「日本が再び(自発的に)戦争をするための体制を整えつつある。」
という(否定的)ニュアンスを帯びているように思えてなりません。
もちろん試験中に「戦争法案」とは書かれていませんが、
少なくとも私はそう読み取れた、
もしくはそう伝えようとしているかのように受け取りました。
私以外に放送大学側もそう受け取ったのでしょう。
つまり読む側に誤読(敢えてそう表現します)させるようなコンテクストだとなれば、
上記試験問題は教育的中道の位置にいるといえるのだろうか、
少なくともそうあるべく配慮をした問題とはいえないのではないかと思えるのです。
ただし、この試験問題を、放送大学に(言い換えれば放送法に則って)ふさわしくないと
(これを検閲と呼ぶとして)削除することが正しいかどうかは私には判断がつきません。
さらに突っ込んで考えれば、教育とは中道にあるべきか否か、という問題もあるでしょう。
あくまでも私は政治的な問題や軍政について触れたのではなく、
「教育」という視点に絡めての個人的な意見です。
しぃたけさんのご意見、検閲すべきではないというお考えは
私が触れていない部分にまで踏み込んだものとして、拝読いたしました。
つきましては、自分からこのような記事を挙げておいて申し訳ありませんが
今後あまり突っ込んだコメントはお答えしづらい……ということをご了承ください。
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>>決め打ちで試験にしてしまう
との事ですが、はたして本当にそうでしょうか。
「戦争をするための体制」を整えるのは、軍あるいはそれに準ずる組織を持つ国家の義務ではないでしょうか。逆に考えてみて下さい。戦争する体制が整ってない自衛隊に存在価値はありますか?
よって、「検閲された文章は、特定の思想に偏っているとは言えません。」と、解釈する事も可能です。となると、やはり今回の検閲には問題があると言わざるを得ません。